掲載日:1997/06/11
最終更新日:1998/08/20
改 5 版

山口家の人々

父 山口祐助

明石侯に仕え、足軽となるが 21・2 才の頃、家督を妹に譲り江戸に出る。神田小川辺りの鈴木某家に入り、足軽となる。後年、御家人となり株を買い、マスを娶る。

<98/08/20 追記>
江戸期から明治頃における地図に<山口祐助 幕臣>と記されているらしいので、もともとは足軽ではなくれっきとした幕臣だったようです。ちなみに邸は本郷弓町だそうです。しかも今までヒミツにされていたそうですが、ある組織の諜報部員だったということです。(当時はなんて言うんだろう。隠密御庭番衆を想像してしまったのは私だけか?)こういう特殊な役目は親子代々受け継がれることが多いので、斎藤一もそういう星の下に生まれついたのだと考えると後の彼の人生も なるほどなあと肯けるかも知れません。

母 マス

川越の百姓であった。廣明、勝、一の3人を生む。

姉 勝(天保13年生まれ/推定)

水戸の徳川家の藩医となった相馬俊明に嫁いだ。長女 てる(文久3年10月7日生まれ) 長男 俊和(慶応2年10月4日生まれ)など4人の子を産んだ。後年ひさと改名し、明治8年6月1日に亡くなった。相馬家の子孫の方は現存していらっしゃる。

兄 廣明(天保14年6月1日生まれ)

数学をよくした。維新後は明治7年の内務省から始まり、大蔵省の属官を経て、主税局、福島県東白川郡書記、福島地方裁判所書記として明治31年に退職。長女のユキ子は小学校の教員であったが明治27年に面チョウのため死に、山口家は断絶。

一(天保15年1月1日生まれ)

山口家の核弾頭。19才の頃、小石川関口で旗本の士を殺してしまい、父の祐助がよく世話をしていた吉田某が京都で開いていた道場へ、添書を持って身を寄せた。吉田家では、剣道が優れていたため先生の代稽古をしていた。

藤田家の人々

藤田五郎

一が会津藩主容保侯から賜った名前。従って藤田家の歴史は彼から始まる。ここにいたるまでに山口一、斎藤一、山口次郎、一戸伝八を経ている。戊辰戦争後は会津藩士として斗南で謹慎し、西南戦争の警視庁抜刀隊を経て、警視庁に奉職。その後も東京高等師範学校付属東京教育博物館看守等をしていた。大正4年9月28日 奇しくも新選組二番隊組長 永倉新八に遅れること8ヶ月、息をひきとった。(晩年の彼については年表からどうぞ。)

妻 時尾(弘化3年4月15日生まれ)

会津で代々三百石の知行取りで、大目付けをやっている高木家の高木小十郎の長女。お城で祐筆を勤めていた。会津戦争の際には鶴ヶ城に篭城し、怪我人の手当てなどをした。また夫 尚之助の砲兵隊に加わって勇敢に出撃し、活躍した山本八重子の髪を切ってやったのも時尾といわれる。戦が終わってから討死にした藩士達を葬るのに尽力したため 藩主から阿弥陀寺の一画を貰い受けた。現在、藤田家之墓として五郎が入っているのは其処である。母の克子は大変な美人であったらしい。妹のお民は弘化4年6月に生まれたが 2歳で亡くなっている。末っ子の弟 五郎(安政元年9月15日生まれ)は、後に盛之輔とあらため明治以降、検事正として 静岡、北海道、福島などの裁判所や検事局に勤めた著名人である。晩年の五郎(一さんの方です)が、山川浩と共によく酒を酌み交わしたお相手である。時尾は晩年女子高等師範学校の舎監をしていた。

長男 勉(明治9年12月15日生まれ)

藤田勉,みどり夫妻彼についての記録はあまり見た事が無いが、後に軍人となり大正6年頃 陸軍少佐として若松六十五連隊に勤務した。松平容保の四男 恒雄の学友だった。その息子の実は大学をでるとすぐ満州に行き、そこから出征、各地を転戦し、沖縄で終戦をむかえた。そのときにアメリカ軍から一時預かるということで取り上げられた *刀は、結局 戻ってこなかった。後に彼(実)が語ったところによると、父 勉は時々物陰から隙を突いては「士道不覚悟!」と言って竹刀で打ち込んできたりしたらしい。昭和31年、亡くなる間際に藤田家の文書を語り残したのは勉である。(書き取ったのは 妻のみどりさん)

この刀は会津藩家老菅野権兵衛の所持していた南紀重国の刀で、それは勉の学友であった松平恒雄の娘、勢津子が秩父宮家へ嫁ぐときのお祝いの品として、会津藩から会津長道の刀を大小差し上げることにしたが、大刀はあるものの小刀がなくて困っていたところを、藤田家にあったのでそれを差し上げたお礼だった。
参考資料 『共同研究新選組』斎藤一(藤田五郎)の謎

勉の妻 みどり

才色兼備の上に家柄もよろしい名家のお嬢様であった。たまに五郎の長女であるという記述を見かけるが、西野家から嫁いできた人である。時尾が気に入り、再三人を立てて息子の嫁にと先方に申し込んだうえに、お百度まで踏んで遂にもらいうけた。五郎が胃潰瘍を患ってからはよくその看護をし、臨終の際にも立ち会っている。

二男 剛(明治12年10月4日生まれ)

藤田剛氏彼に関するものはもっと少ないが、藤田実氏いわく、分家して外国生活をし、子供たちも盛んにやっている(その当時の事ですが)そう。旧会津藩家老田中土佐の孫娘と結婚。貿易関係の仕事に携わり、子供のうちの一人を横須賀の大商家 浅羽家に養子にやったそうです。

三男 竜雄(龍雄)(戸籍に記載されていないため不明)

沼沢龍雄氏生まれる前からの約束で、以前からの縁者である沼沢出雲家に養子にやり、その実子として育てられた。沼沢出雲は会津戦争では旧沼沢家家臣団を率いて越後口で戦い、落城後は塩川で謹慎、のち高田藩へ預けられ、当時一戸伝八と名乗っていた五郎等とともに斗南へ移住した。沼沢家は時尾のいとこにあたる。晩年五郎が潰瘍を患い、様態が悪化した際に時尾が、当時宮城県に住んでいた沼沢竜雄に宛てた手紙(8月10日付け)が残っているようだ。

藤田家の人々 その2 (いや、順番からいってその1か?)
<98/08/20 追記>

やそ

斗南 三戸郡 五戸村での貫属戸籍により表明した 藤田五郎の妻。その資料によると 藤田五郎 27才、やそ 31才となっているので 年上の奥様。詳細は不明らしいが資料には明治7年7月10日に五郎は東京に行き、やそは明治9年7月20日に同じ五戸村の倉沢平右衛門の父母が住むところに転居となっているそうです。興味深いのは もう一人の妻 時尾が倉沢平治右衛門の養女として戸籍にのっている(らしい)こと。(注:平右衛門と平治右衛門の違いはただの校正ミスなのか別人なのかは私にはわからないですが、一応 本の通りに書いてみました)ううん、奥が深いぞ藤田五郎。



現在でも、藤田家の子孫の方は東京などにお住まいらしいです。賓(まこと)さんという方のお写真が本に載っていましたが、目、鼻、唇など肖像画の一さんの面影を宿していらっしゃり、胸がじぃんとしてしまいました。

このページの記載のほとんどは、『新選組副長助勤 齋藤一』および『新選組・斎藤一の謎』赤間倭子さん著を参考とさせて頂きました。

また、一さんの3人の息子さんに関する部分は 写真を含めて、会津武家屋敷発行の『救え会津〜来援の勇者』のなかで(またも)赤間倭子さんの執筆された斎藤一に関する部分からと、『物語 新選組隊士悲話』北原亜以子さん他 著 を参考にさせて頂きました。

はづきさん 重ね重ね 教えてくださりありがとうございました。大感謝。


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