掲載日:1997/07/08

西南戦争
やっぱり抜刀隊っすか明治10年2月14日から 9月24日

征韓論に敗れた西郷隆盛は中央を去り、彼を慕い、従う若者達を教育するために鹿児島で私学校を設立します。当時、鹿児島では独自の県政が行なわれていたため、政府は様々な圧力を加えていました。そして遂に 明治10年1月末、政府のやり方に不満を持った私学校の生徒達が政府の火薬庫を襲い、西南戦争が勃発しました。

藤田五郎が警視局の巡査として西南戦争に出征したことは、今では ご存知の方も多いと思います。

彼が所属した部隊がどこであったのか、残念ながら今のところ 私自身が確信できる資料にたどり着いていません。このページの掲載が遅くなった理由はこれです。ですが、徐々に更新していく過程を見て頂くのも悪くないと思い、今回 掲載してみました。

内務卿 大久保利通が警視隊を九州に向わせたのが 2月11日、この警視隊の中から生まれたのが抜刀隊です。この中には佐川官兵衛をはじめとする旧会津藩士が多数含まれ、「戊辰の仇」を晴らさんと勇敢に突撃します。

東京教育大学に保管されている 藤田五郎の履歴書によると、彼は 明治10年2月20日付で任警部補(警視局)、九州に向ったのは 5月18日とされていますので、実は彼、この警視隊の抜刀隊にはいなかったんですね。

それでは、彼はどの部隊に所属していたのでしょうか。

まず、京都の霊山歴史博物館にある写真に、藤田五郎が写っているという話。これは後日 実際に見て確かめるつもりですが、別働第三旅団の写真でどれが藤田五郎かは 一部の人達のみ知っているという 噂のアレ。ここに彼が写っているのなら、彼が別働第三旅団に所属していたということが 証明されますから、これが一番 確かな証拠ということでしょうか。

ただ、どれが藤田五郎か判るまでは、保留にしておきましょう。いつか判る日が来ることを祈りますが。

そこであえてここでは、参考として 別の説を載せてみたいと思います。

基本となる資料は 後藤正義著「西南戦争警視隊戦記」です。ここで藤田五郎は 六小隊編成 700人から成る豊後口警視徴募隊に所属しています。指揮長は三等大警部 萩原貞固、六小隊の中の 二番隊 小隊長は三等少警部 平田武雄、その下の 半隊長に警部補 藤田五郎とあるそうです。

彼は 豊後口の戦闘に参加し、敵に斬り込みをかけて 砲2門を奪う等 手柄を立て、その後 7月12日 三川内方面での戦闘で銃創を負います(どこに傷を負ったかは不明)。

著者の後藤氏によれば この事実は、熊本県高橋町の郷土史家 江藤政光氏の研究調査によって明らかになったそうです。私がこの資料を探すきっかけであり、また このページを書く参考にした資料は「新選組隊士悲話」の中で赤間倭子さんが書いた斎藤一の部分です。

まだもう少し 書くことがあるんですけど、資料をまとめて 確認してからにしたいので今回はここまでにしますね。

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