斎藤一
掲載日:1997/06/11
最終更新日:1997/06/18
改 2 版

天保15年〜文久3年

◆ 京都以前の一さん

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・特になし
■ 参考文献
・「聞きがき新選組」
佐藤あきら

(敬称略)

■ あまり資料がありませんが...『十九歳までの日々』

斎藤一は 天保15年(1844年)1月1日 元旦に生まれました。所は今の文京区九段下の辺り、生まれも育ちも江戸っ子です。

父 山口祐助、母 マス、兄 広明(廣明)、姉 勝(カツ、マサルさんではありません)。従って 当時の名前は 山口一。

末っ子なのに一というのは きっと元旦生まれのせいと見た。そういう意味では 後々 高台寺から戻ってきたころから、会津戦争まで名乗っていた 山口次郎(二郎)のほうが 山口さん家の二男坊という感じですね。

19歳の時に誤って(おいっっ! または口論の末と書いてある資料もありますが)旗本の武士を斬り殺してしまい、その日のうちに一の身を案じた父や兄に無理矢理 旅支度をさせられて、泣く泣く 運命の京都に旅立ちます。僅かの金子と握り飯(?)そして父・祐助が吉田某に宛てて書いた書状を持って。

この吉田という人は 祐助が その昔よく面倒を見てやった男で、当時 京都で剣道場を開いていました。そこで 19歳の一は師範代を勤めます。

斎藤一が沖田総司と並んで新選組一・二を争う剣客であったと言うのは 割と聞く話です(多分)。二番隊長の 永倉新八っつあんは? もちろん 強かったと思います。これについては 後に新八さん自身が弟子に語ったらしい ちょいと興味深い 話があるのですが、沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣だったとのこと。詳しくはもっと後の 「油小路事件」のところで書きたいと思います。

文久3年3月に浪士隊が上京し 数多の経緯を経て 会津藩預の新選組が結成されますが、 一は それに京都で参加しています。

さて、一はもともと試衛館と関わりがあったのでしょうか?これもいろいろな説がありますが、おそらく事実は誰にも解らないというのが正解ではないでしょうか。多いんだ 一さんの場合 これがまた。で、食客ではなかったが試衛館に何らかの関わりがあり近藤、土方等と顔見知りだったはず という説は、そうでなければ あの(笑)土方歳三さんがどこの馬の骨とも知れない男を いきなり副長助勤にする訳が無いじゃん という憶測の基に成り立っています。なるほど。私もこの説を取りたいと思います。その他 れっきとした(というのも変だが)食客だった説、まったく関係無いが会津藩の指示により入隊し幹部になった説、または会津藩の隠密説等 もりだくさんです。楽しめるったら。一応、以前から接点があったという記述があったのでそれを載せておきます。

斎藤一は晩年山口五郎と改名して、御茶の水なる高等師範学校に剣道の教授を勤めていた。谷保村の本田退庵伯父と浅川町の小林浅洲氏とが面談した時、また、父俊宣が訪問した折も虎徹について斎藤の話があったという。
その話に「小石川小日向柳町の近藤先生の道場に、遊んでいた頃、私が四谷のある古道具屋から買った一刀で、先生が大変気に入った様であったから、進上した。無銘ではあったが虎徹に似ているとて、愛玩されたものです。」と。

『聞きがき新選組』佐藤あきら著(お名前が変換できません、申し訳ありません)
* 原文のまま記載しました。下線は私がつけました。

著者の方は、俊三さんの姉 のぶさんが嫁いだ佐藤彦五郎さんのお孫さんで、文中にでてくる俊宣とは彦五郎さんの長男です。


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