掲載日:1998/04/01

祝!一万一千百十一 アクセス - 号外版 -

えいぷりる ふーるなのね

斎藤一氏が藤田五郎として過ごした明治の時代ってどんな?と思い、読み始めた「新聞集成 明治編年史」。
読み進むうちに、その中で偶然見つけた「豊後方面戦闘史」に、なんと藤田五郎半隊長が登場!あんまり嬉しかったので 11111 アクセス記念に ここに掲載します。


豊後方面戦闘誌

東京日日新聞 / 明治10年8月23日付

戦報採録拾遺此報は七月十一日より、本月七日に至る豊後路戦争の実況を該地出張の大庭氏より郵送せられたるものなり、依て前号と同じく之を戦報採録の拾遺として掲載す。

○七月十一日、三河内進撃の部署を定む。-略- 轟越攻撃隊は警視二番小隊、陸軍一小隊、援軍は警視三番小隊、陸軍一小隊、大予備陸軍一小隊、右指揮官、馬渡大尉、同副官加藤警部補なり。

○同十二日、-略- 轟越諸兵も午前第三時森崎を発し丸市尾(マルイチビ)に至り、警視二番小隊を二分し、半隊長藤田五郎小隊を率て陸軍の兵と合し本道を進み、-略- 是より先き藤田五郎右翼の兵を率い福原峠を越え焼尾に至り、賊塁を撃て直にこれを抜き、又兵を高床に進め砲撃して之に当たる、この時藤田五郎銃創を負う。故に暫く兵を焼尾に退くるといえども、左翼の兵己に迂回して高床の賊兵を攻撃す。

○同十四日、-省略-

○同十六日、-略- 午前第四時頃對馬畑(ツシマタケ)の方に当たり砲撃あるによりその入口なる哨兵警視二番小隊の兵を出したりといえども、賊鋒極めて鋭くして終に支うるに能はず、故に後備歩兵第四大隊第四中隊の兵と共に葛原浦(カツパラウラ)に下り、諸方に胸壁を築き守備をなさしめんとするとき、再び對馬畑の塁を取返したるの報あるを以て、又た警視二番小隊の兵を進めその哨戦を守らしむ。此の時 -略- 警視の兵も戦死二人 負傷三人あり。

○同十七、二十三、三十日、-省略-

○八月二日、市尾口攻撃のため各其の方向を部署し、-略- 警視二番小隊半隊を以て尾高地(オタカチ)峠の攻撃兵となし同隊半小隊を以て其の援軍となす。-略-


*以上は藤田五郎所属の警視二番小隊に関する部分のみの抜粋です。
文中において敵軍を賊と称している部分がありますが、新聞に掲載されているとおりに転記したものですので、ご了承ください。また、読みやすさを優先させたため、旧字体は新字体で置き換えてあります。

西南戦争に関する記録は、非常に膨大で且つ多岐にわたるため、年表中の西南戦争の項目は更新に時間がかかっています。私のように素人が考察するには 無茶だってば、な部分が多くて(いや、やってるけど)、特に 陸軍関係の資料と警視隊関係の資料は見事に分かれているので、それぞれの地区の戦いについて把握するには両方の資料を日付と場所で照らし合わせる、なんてことをしてるんですけど、そういう点で この新聞記事は両方合せた記述になっているので、わかり易くって それだけで 非常に有り難かったです。




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