斎藤一
掲載日:1997/06/15
最終更新日:1997/06/18
改 2 版

慶応3年11月18日

◆ 油小路事件

■ 関連記事
■ 参考文献
・「藤田家文書」
・「史跡探訪
新選組士道残照」
赤間倭子
・「史談会速記録」
会津史談会

(敬称略)

■ さようならみんな ぼくは

この事件によって、斎藤一は 裏切り者という汚名を一生背負うことになります。事実、彼は晩年何者かに襲われ何度か危ない目にあったといいます。恐らくこの事件は 終生 彼の心のある部分にながく暗い翳を落としていたのではないでしょうか。「藤田家の歴史」(藤田家文書)の中で、”芹沢、伊東は自ら手を下したり”というくだりがあります。しかし 伊東を実際に殺害したのは大石鍬次郎等とされているので、恐らくこの言葉は、自分が殺したも同然であるという意識からではないでしょうか。(実はホントに手を下してたり..... ?)それでは斎藤はこの時どこに居たのでしょうか。

御陵衛士がいよいよ近藤の暗殺を計画したところ、斎藤が近藤は自分が相打ちを覚悟で倒してみせると持ちかけ、11月10日に高台寺を抜けだしました(乞食姿という説あり)。一旦屯所に戻って近藤の暗殺計画等を報告した斎藤は、すぐに 紀州藩公用人 三浦休太郎の所に身を隠します。この時点で斎藤は山口次郎と改名し、新選組は斎藤一という存在を抹消してしまったと思われます。

明治になって史談会で御陵衛士の生き残り阿倍十郎は、斎藤は 近藤が送り込んだ間者であったといわれているが そうではなく、女にだらしがない奴で、伊東の金を50円(50両?)持ち出して女に使い込んだので、高台寺に帰れなくなり近藤に泣きついたのだと語っていますが、それは少々負けおしみっぽいのではないでしょうか。だって、新選組から分離したくせに、それを裏切ってまた戻ってきたような男をどうしてあの近藤・土方が迎え入れるでしょう。近藤の暗殺計画を手土産にしてというくだりもありましたが、だとしたらその手土産を渡した時点で斬られているのでは。(この辺で そうだ、斎藤はそんなに卑怯な男ではなあい!という一言希望)

そして11月18日、伊東殺害の当日 斎藤は 三浦邸には居ませんでした。近藤勇が三浦休太郎に宛てた書簡の中に、『二郎の潜伏ではお世話になり感謝している。ついては急な用件で、突然あなたに無断で二郎を引きとって申し訳ない。』という部分があるそうです。日付は11月18日、つまり事件の当日です。二郎というのはおそらく斎藤のことと思われます。それではなぜ、当日斎藤を帰隊させたのか?(ただ、斎藤一が油小路の変に参加していたという資料はみあたりませんので、史実的裏付けがある訳では無いのですが。)それはやはり戦力のためではなかったでしょうか。

ここで他のページで少し触れた新八さんの語った話を紹介します。新八さんからその話を聞いた方は、内藤忠正藤原勇昌氏で、この方は明治20〜30年代に 小樽の永倉新八に天然理心流を教わったそうです。その折に彼が新八さんから聞いた秘話を、晩年になって 弟子の瀧上鐵生氏に話してくれたそうです。瀧上鐵生氏は現在 天然理心流の師範をなさっています。その瀧上鐵生さんが、新選組副長助勤 齋藤一等の著者 赤間倭子さんに語られたお話を以下に掲載します。ちなみに場所は触れ合いの居酒屋新撰組だそうです。

「赤間さん、斎藤一は油小路の変に参加してますよ。永倉新八から師が聞いた話では、あの激闘のさなか、高台寺等の服部武雄をたおしたのは彼なんです。服部は勇敢に戦ってますよね。彼は何十ヵ所も斬り刻まれていたが、壁というか塀というか、それにぴったりとはりついていて、倒れずに立ったまま。それで永倉は彼を斬ったが、倒れなかった。ところが斎藤一が一刀のもとに抜きうちに斬った瞬間、バッタリと地に倒れたそうです。永倉はそれを見て、思わず感嘆の溜め息を漏らしたそうです。」

『史跡探訪 新選組士道残照』赤間倭子著

このお話は、一さんを敬愛する私にとってはとっても興味深いんですが、新八さん自身が残した『新選組顛末記』では、服部を倒したのは原田左之助とされています。し、新八さん..... どっちがほんとっすか?


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