掲載日:1997/06/17

御陵衛士として分離
うるうるスパイ大作戦 慶応3年3月20日

かねてから伊東が、近藤に申し入れていた新選組からの分離がついに3月13日に了承されました。この夜、近藤、土方、伊東3者の会談がもたれ、その席上で伊東は自分たちがすでに考明天皇御陵衛士を拝命していることを告げ、脱隊ではなくあくまでも分離であることを主張しました。(いや見てないけど多分)新選組にいたのでは把握できないであろう薩長の動きを掴み、それを新選組に報告するのだと。後の伊東らの行動を見れば、これは全くの詭弁なのですが、近藤も土方もこの場は了承するより仕方なかったのでしょう。(彼等には切り札が用意してあるし)

そして20日、伊東甲子太郎をはじめ13人(この人数には諸説あり、下に抜粋してある文にも15人となっています)が、武器雑具を携えて西本願寺の屯所から三条の城安寺に移動しました。伊東以外のメンバーは、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、毛内有之助、加納鷲雄、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、橋本皆助、藤堂平助、そして斎藤一。さらに翌 21日には全員が、五条西の善立寺に移動しました。

衛士となった15名の中、斎藤一(後の山口五郎)はもともと近藤の腹心である。隊中錚々のの剣客で、勇も事毎に目をかけてやった。これが伊東一派に異心の出来た頃から努めて交わりを厚くして、伊東の論に賛成し、分離に際しても自らよく尽くした。伊東もその剣法を心頼みとし、有力な味方と思っていたが、敢計らんやこれが近藤の旨を含んだ間者である。伊東の薩長との関係が手にとるように近藤にはわかった。
『新選組始末記』子母澤寛著
伊東は、新選組の動向を探るために 4人の間者を残しますが、近藤、土方の方も 負けずに間者として 前々から斎藤をくっつけてあります。斎藤が最後まで間者であることを悟られなかったのは(彼の資質によるものも大きいでしょうが)、おそらく疑いを持たれないほど以前から斎藤は伊東と行動を共にしていたからでは無いでしょうか。そしてこれは斎藤の意志ではなく 近藤あるいは土方の命によるものです。自分の意志による行動なら 後に彼が伊東を裏切り新選組に戻ること、そしてそれを近藤、土方が許すというのは到底ありえないと思われるからです。また、近藤が伊東を頼りにしていた時期のことを考えると、斎藤にそれとなく伊東と行動を共にするように指示したのは土方でしょう。流石ですね。作戦の上では二枚ぐらい上手だったと言えるのではないでしょうか。

さて、それではいつ頃から斎藤のスパイ大作戦は始まったのでしょうか。もしかしたら、伊東が入隊して早々だったかもしれませんが(だとすると3年もか・・・)。これは私の想像ですが、伊東の入隊翌年(慶応元年)に土方は、伊東、斎藤、藤堂を連れて、江戸に隊士の募集に出かけています。この辺りがポイント。この時に斎藤は伊東と組んで隊士の募集にあたっています。それを見て歳三が、こいつならいけるかも と思ったのでは。そして「斎藤君、ちょっと」から始まる彼の悲しきスパイ生活。ですから 慶応3年の 島原の連泊後の謹慎処分が決るまで、斎藤が土方の居間に謹慎させられているのは どう考えても意図的なものではないでしょうか。(順番からいって、永倉が土方の居間に置かれるのが普通だと思いますし)きっとここで土方は斎藤からいろいろなことを聞き出したのではと思うのですが。

その後 4月14日に田中寅三が新選組を脱し、御陵衛士に走ったとされますが、新選組と御陵衛士には相互の隊士の受け入れを禁止する規約があるため、受け入れられずに潜伏していたところを発見され、屯所に連れ戻された後に切腹させられています。更に 6月12日には伊東が新選組に残していた間者4人を含め、10人もの隊士が隊を脱しますが、やはり御陵衛士には受け入れられずに終わっています。彼らの処分については長くなるのでここでは触れません。

6月後半、衛士たちは高台寺の月真院に移動し、「禁裡御陵衛士屯所」という標札を掲げ、菊花紋章の入った幕を張りめぐらせました。

そして 8月8日に、伊東、斎藤、藤堂、鈴木 4人の連名で議奏の大納言柳原前光と幕府老中の板倉伊賀守勝静あてに(つまりは朝廷と幕府にあてて)建白書が提出されました。内容は長州への処分寛典を訴えるもの。ちなみに6月後半には新選組の近藤が、長州の処分を厳罰にという建白書を提出しているので、正反対ですね。この辺からも両者の立場が、政治的に真っ向から対立するものだということがわかります。そしてやはり注目すべきは、斎藤の名がそこにあるということ。斎藤は伊東の信頼を受けていたのだということが 伺えるのではないでしょうか。

さて、御陵衛士の面々の暮らしぶりですが、襲撃(特に新選組の)に備えて、刀を抱えて眠ったり、右を下にして寝るのが良いか、あるいは左かなどということを話し合ったり、ロケットの製造法(?)や、英語の勉強をしたり(篠原泰之進のノートが残っている)しています。一さんも英語の勉強してたんでしょうか・・・。この頃の斎藤は、祇園の女にいれあげて通い詰めていらしいので、(作戦だよ、作戦・・・?)篠原に「斎藤君、今度あいらぶきゅうとでも言ってやりなさいよ」なんてからかわれてたり(や、やめて・・・でも きゅうってなんだ)。

角谷で命がけの酒宴斎藤一の年表へ御陵衛士として分離
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